論理の飛躍

 日常生活で、私たちは「論理の飛躍」という言葉をよく使う。

 例1

 メキシコ人のホセは、とても陽気な人だった。

 メキシコ人のカルロスも、とても陽気な人だった。

 ∴メキシコ人はみんな陽気なのだ。

このような推論は、論理的には飛躍している。しかし、私たちはしばしばこうした推論をするし、まったくの誤りとも言えないように思える。

 ここで、「演繹」と「帰納」という二つの推論の区別をする必要が出てくる。演繹とは、前提が真であれば結論も必ず真となるようなタイプの推論である。演繹では、結論で述べている内容は、実は前提の中に暗黙に含まれている。次の例を見てみよう。

 例2

 すべてのメキシコ人は陽気である。

 カルロスはメキシコ人である。

 ∴カルロスは陽気である。

第一前提の「すべてのメキシコ人」の中にはカルロスも含まれているのだから、結論でカルロスは陽気であるというのは、「あたりまえ」、「必然的」であり、何ら新しい情報をもたらしてはにない。

 それに対して例1では、結論で言っていることが、前提に含まれている内容を明らかに超えている。そして二つの前提が真であっても、結論が真であるとは限らない。このような推論が帰納である。いわば「一を聞いて十を知る」のが帰納であり、そのうちいくつかは誤っているかもしれないという危険がつきまとっている。帰納の中でもよく行われるものが、例1のように、いくつかの事例から一般的な結論を導く一般化である。帰納といえば一般化をさすこともあるが、広義には、帰納とは「演繹でない推論のすべて」のことである。たとえば、次の推論は、一般化ではない。

 

 例3

 すべてのメキシコ人は陽気である。

 ホセは陽気である。

 ∴ホセはメキシコ人なのではないか。

「ホセはメキシコ人なのだ」という仮説を思いついたことによって、「ホセは陽気である」という事実がうまく説明される。一般命題と事実命題を与えられて、それを矛盾なくつなぐ命題を仮説として生成するタイプの推論は、哲学者のパースによって仮説的推論と名づけられたが、広い意味で帰納の一種である。もちろん、陽気なのはメキシコ人なかりではないから、この仮説を結論とすると誤ってしまうかもしれない。しかし、つじつまを合わせるための仮説を見出すことは、しばしば重要である。

 

 例4

 自分が回ると周囲が回って見える。

 天空は回って見える。

 ∴地球は回っているのではないか。

 地動説は歴史上もっとも大胆な仮説的推論の一つである。「天空ではなく、地球のほうが回っている」という仮説を思いつくのは容易ではなかっただろう。ひとたび思いついた仮説がどれだけ他の現象をも説明できるか、またその仮説が正しければ生じるはずの結果が実験によって確認できるか、ということをくり返しながら科学は進歩してきた。ここには、帰納と演繹の併用による認識の高まりを見ることができる。

 演繹と帰納は、車の両輪のようなものである。演繹は、新しい情報をもたらさないといっても、前提から必然的に導かれる命題を明らかにするときには、偉大な「発見」となりうる。これは数学の定理を見ればわかる。また、演繹の結論が正しいかどうかは、万人が認めざるを得ないので、説得力がある。しかし一方では、限られた経験からより多くの内容を含む結論を引き出すという帰納的推論をしなければ、太古の人間は「明日の代用はどこから上るか」に毎日悩まなければならなかっただろう。私たちの学習は基本的に帰納の産物である。帰納によって、原因を推測し結果をコントロールしたり、未来を予測してあらかじめ対処しておいたりできるのである。

 帰納的推論には、何らかの「飛躍」が必要である。しかし、とんでもない飛躍をしてしまうと、結論が正しい可能性は低くなる。帰納的推論においては、前提(あるいは「データ」といってもよい)がどれくらい結論を支持するかという「程度」があるのだ。

 

「考えることの科学」(市川伸一)P41〜P45より引用

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